1959「谷口先生、最高師範と共に石川へ」


部誌「凱風」第二号 谷口興一先生の「躰道雑感」より

躰道雑感

仁雄会会長 谷口興一

 心臓の拍動は人間の活動ひいては社会の創造と流動を生み出している。つまりエネルギーの源泉である。血液を全身へ送り出す反復操作の累積が人間社会の奔流や歴史の脈流を造成する。”歴史は繰返す”という言葉は単に反復という意味ではなく、歴史の原形質である社会の流れが定常流とは異なり、激動豊潤な脈動流であり、創造と原点復帰が縦横に交絡した歴史の変遷を意味している。創設数年にして日本武道界に溢るばかりの魅力を奔しらせ、激湍のごとき台頭を築いた躰道の歴史も、創造や改革の波動が淵源として躍動している。昭和三十三年創設以来、医歯大躰道部(創設時は空手道部)も十六年の歳月を迎え、このたび新主将清水君ほか部員達の奔謄する情熱により第三期黄金時代を築く感がある。創造精神の発露としての躰道の発祥は、恰かも西洋文化の発祥がギリシャに受胎したごとく、最高師範が演じた舞台が、医歯大空手部であった。今後の部誌発刊に際し、躰道発祥の檜舞台より寧了その舞台裏の推移を想い出してみよう。


 昭和三十四年七月下旬であったと思う(小生弐段の頃)。最高師範から「市川へ行こう」という電話があった。少なくとも小生にはそのように聞こえた。気軽な気持で稽古衣一つを持参し、師範宅を訪れると市川ではなく石川県ということであった。 つまり玄制流空手道の普及と新しい業技の創作を兼ねた北陸一帯の武者修行ということであった。所持金は往きの旅費以外は無一文、一宿一飯を乞わねばならぬ二人旅三度笠である。上野から夜行に乗り翌朝金沢に到着すると早速金沢県警を訪ね、逮捕術の参考になるという理由を付けて、玄制流の術技を護身術風に紹介した。小生の実演に対して師範が業技解説をするという、いわば押売り的教授である。終了後昼食を御馳走になり、謝礼千五百円(現在の五千円ぐらいに相当)を頂戴したが、これは次の訪問地を向う軍資金となった。ついで七尾市、珠洲市、能豆半島の突端である高屋まで足を伸ばしたが、いずれの場所に於ても、警察署や消防署員に玄制流の術技を教えた後、一飯の饗応を受け、教授料を貰ういわば品の良い道場荒しである。宿はできるだけ民家に一宿を乞うようにし、軍資金は専ぱら新しい術技や業技の発想と展開に必要な源泉、百楽の水を求める糧とし、鯨海酔候の如き雰囲気に酔うのを常とした。今を去ること約百十年前、時は幕末風雲の頃兵庫県神崎郡中寺村の一民家に、みすぼらな身なりの武士は立寄り、一宿一飯を乞うた。はからずも十数日に及び、立ち去るにあたりお礼として桜の仕込枝と一幅の書を残した。
 

「雖貧勿求浮雲雖富窮勿丈夫志屈
矯々如竜耽々如虎潜身隠名当待一陽来復時」


 この武士が誰であるか最近まで不明のまゝであったが、これが北辰一刀流千葉貞吉(千葉周作の弟)道場の免許皆伝塾頭を勤めた維新回天の志士坂本竜馬直柔その人であることが、最近判明したのである。裸一貫、命を棄てて維新回天の大事業に東奔西走していた竜馬の胸裡にも、志士としての只管な怜恃があったに相違ない。右の句を見ても不撓不屈の闘志がありありと窺える。当時、最高師範は青雲の志胸中深く、沖縄を離れて上京後、古流岸本派の後継者として古流を母体に玄制流を創成したものの、術技面も精神面も一つの転起にあった。すなわち空手界の狭隘枯陋な利己分裂主義、及び空手界と社会や学問の世界の異和感、あるいはさまざまな懊悩から脱却すべく分岐点にあり、型や業技の概念を破ること及び術技の創作に空手を脱皮する独特な工夫がなされつつあった。このような意味において能登の旅行もこの轢軋から飛朔して新しい見解へ到達するための気持の整理もあったに違いない。夜半、銘酒がすすみ微酔となれば、頭脳の回転は明析、新しい業技の創作、武道を介した社会観、武道の将来など話は尽きることがなかった。小生も心が弾み、師範の相談役、あるいは聞き役、ときには発案者ともなった。これを契機として造られたのが八方破りの業技である。この業技は、半年後能登の演武会で、小生はたった一度紹介したのみで、他の会員は恐らく誰も知らないまゝである。何故ならばこの業技は従来の空手道の業技、型を殆んど否定したものであり、躰道へ脱却する導火線でもあった。すなわち空手の直線的攻防は一つもなく、すべて現在の躰道における旋、運、変、捻、転の操作法による攻防であり、また従来の演武軌道線を完全に破って攻防を展開し、かつ最後には原点に復帰するというものであった。このようにして我々は玄制流の将来あるいは人生を語って夜を明かした。しかしながら常にこのような固い話ばかりをしていたのではない。有名な竜馬先生も薩長士連合の話合がついた際、帰洛の途次、美人の膝枕の上で酔中の作といわれる秀逸な即興詩を詠んだ(いや唄ったのかも知れない)。
 

酒は飲むべし、酒は飲むべし、
人生唯酒ありて胆を開く
酔中の快楽人知る無し
大地を褥と為し天衣と為す
君見ずや和聖東、奈波翁
一世の雄、夢か真乎
知らず天下放蕩の士
飽くまで美酒を飲んで美人に迷ふ
酔ふては枕す窃窕舞姫の膝
醒めては握る堂々四海の権
天我れに自由を与えよ
然らずんば死を授けよ
 

 竜馬という男は大した者だ。固くてよし、崩してよし、構えあって構えなし、常に創作、創意に富み、方便は方便を以て制すということであろう。
 我々は最後の宿泊地高屋で海の土産を頂戴して帰途についた。七尾の駅前の赤提燈は、我々に醍醐味の銘酒に舌鼓を打つべきと頻りに誘惑する。徐々に足を運び、酒を注文した。但し酒の肴は我々が持参した魚を刺身にして嗜むという条件である。宵も深まる頃には唄も口遊さむ。
 

長風授却半生愁 湖海已做両日遊
微酔醒来情未尽 満船名月送帰舟
 

 夜行で米原へ向ったが、到着したのは深夜の米原、赤提燈もない暗闇。ホームのベンチを武道家二人の褥としたが、飢えた無頼の藪蚊の集中攻撃、これに旨く対処するのも武道兵法のうちと悪戦苦闘で夜を明かした。翌朝、東海道を一路東京へ、浜松で喰った鰻丼の味は格別、値千金にも優る御馳走であった。しかしながらこの旅程も、熱海で急遽途中下車、温泉地、伊東を訪ねることに相成った。伊東道場の心からの饗宴を受け、豊かな温泉の湯で数日間累積された垢を疲れをすっかり落した。酔眼朦朧となって出掛けたネオンの巷には、脂粉艶かな傾国の美女が酌をすべく、我々を待機していた。
 さて玄制流空手道を核として躰道創成の課程には、苦渋の想い出、懐しい想い出、楽しい想い出、将に波瀾万丈である。維新回天の業を顧みても、大部分の志士の目標は倒幕とのものにあり、桂小五郎、大久保利通らの目的は君主専制国家であった。しかしながら竜馬の翹望は彼等とは全く異なる自由奔放な思想から流露した世界観であり、維新の曲は目的へ至る方便に過ぎず、彼の思想は自由民権思想や海運国日本として発展した。つまり躰道の真の目標も、術技自身は一程の方便であり、真の躰道精神を涵養した者が、社会に於て如何に有益な還元をなすかにあるといえよう。

 

 

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